『四面楚歌』
「四面楚歌」という言葉は、周囲がすべて敵に囲まれ、孤立無援の状態を意味します。
この言葉の由来は、中国の戦国時代末期から前漢初期にかけての「楚漢戦争」にあります。その物語の中心人物は、楚の英雄・項羽(こうう)と、漢の建国者・劉邦(りゅうほう)です。
項羽と劉邦――楚漢の覇権争い
紀元前3世紀末、秦の始皇帝が死んだ後、その強大な国家・秦は急速に崩壊します。その混乱のなか、各地の群雄たちが立ち上がり、秦を打倒しようとします。その中でも特に力を持ったのが、楚の名門出身で武勇に優れた項羽と、平民出身で人心掌握に長けた劉邦でした。
劉邦は、運と人望を味方にして、秦の都・咸陽に一番乗りしたことで、「関中の王」に任じられます。しかし、項羽の軍事力は圧倒的で、彼は楚の覇者として各地に王を任命する「分封」を行い、劉邦には辺境の地である「漢中(かんちゅう)」を与え、遠ざけようとします。
しかし、劉邦は黙って従うような男ではありませんでした。やがて彼は楚に対して反旗を翻し、覇権をめぐる楚漢戦争が勃発します。
劣勢に立たされる項羽
戦争当初は、項羽が圧倒的に優位に立っていました。勇猛果敢な武将として名を馳せ、「破竹の勢い」で劉邦軍を何度も打ち破ります。だが、次第に劉邦は人材を集め、策を弄して項羽の勢力をじわじわと削っていきます。
項羽は、武力には優れていたものの、冷静な戦略や政治力には欠けていました。
特に致命的だったのは、彼が人材を信用せず、しばしば身内や味方を粛清してしまったこと。
一方、劉邦は敵だった者すら登用し、有能な軍師・張良(ちょうりょう)や、将軍・韓信(かんしん)、蕭何(しょうか)といった優れた人材に支えられて力をつけていきます。
やがて、戦局は逆転。項羽は四面を劉邦の軍勢に包囲され、最終的な決戦の舞台となる「垓下(がいか)」(現在の中国・安徽省付近)に追い詰められます。
垓下の夜――楚歌が響く
項羽が最後の拠点として立てこもった垓下は、もはや絶望的な状況にありました。
このとき劉邦は、心理的な揺さぶりを仕掛けます。楚の兵士たちの士気をくじくために、彼らの故郷の歌――楚の歌(楚語)を夜通し四方から歌わせたのです。
項羽はその歌声を聞き、驚きます。
「なぜ敵軍に楚の歌が……楚の兵士たちは、皆私を見捨てたのか……?」
そうして彼の心は大きく揺らぎます。兵の士気も下がり、軍全体が崩壊寸前になります。
この状況がまさに「四面楚歌」、すなわち四方から楚の歌が聞こえる=味方がいない孤立状態を象徴する場面です。
虞や虞や、若を奈何せん
この垓下の夜、項羽は自らの最愛の女性・虞美人(ぐびじん)とともにいました。
絶望の中で、項羽は酒を酌み交わし、感情を込めて「垓下の歌」を詠みます。
力拔山兮氣蓋世(ちからは山を抜き、気は世をおおう)
時不利兮騅不逝(ときは利あらず、騅はゆかず)
騅不逝兮可奈何(騅ゆかずしていかんせん)
虞や虞や若を奈何せん(ぐやぐやなんじをいかんせん)
これは、項羽の絶望と、愛する虞への別れの歌です。
やがて虞は、項羽の負けを悟り、彼の足手まといになるまいと、自ら命を絶ちます。
項羽の最期とその後
その後、項羽は残されたわずかな兵とともに脱出を試みますが、漢軍の追撃を受け、五百騎がやがて十数人にまで減ります。最期は烏江(うこう)という川のほとりで、もはや逃げ場を失った項羽は自刃します。
彼は最後まで楚の武将としての誇りを持ち、漢軍の捕虜になることを拒みました。
こうして、勇猛な武将・項羽の生涯は幕を閉じ、劉邦が天下を統一し、前漢を建国することになります。
現代に生きる「四面楚歌
この「四面楚歌」という故事は、現代でもよく使われる表現です。
仕事や人間関係の中で、自分の意見や行動が周囲から完全に孤立したとき、あるいは味方だと思っていた人々からも見放されたときに、この言葉が当てはまります。
ただし、項羽のように、四面楚歌の中でも誇りを持って最期まで貫いた姿には、今でもある種の美学が感じられます。
孤立は必ずしも「敗北」ではなく、「信念の証」であるという見方もできるでしょう。